コンタクトレンズに関するお話

牽強付会とは、自分の都合に合うように強引な理屈をつけてしまうことを言いますが、その病気が治らないと聞いても納得せず、なにか方法があるはずだと食い下がる型です。
根底には病気を認めたくないという観念があり、医学は進歩しているはずだから、良い病院に行けば治せるはずだという過度な希望があります。中には、本や雑誌、ネットなどで、似たような症状や病名を見つけてきて、これはこの薬で治せると書いてあったと、その写しを持参したり、自分流に病気の成り立ちについて勝手に筋書きを作って、しかもそれを固く信じ、だからこうすれば治るに違いないと主張する人も見かけます。
そもそも、病気自体を受け入れていないので、医師としても粘り強く解くしかないのですが、せっかく本人は一綾の望みを持っているのに、それを打ち砕くような説明ばかりしていると、自分が意地悪をしているような気分にすらなります。患者さんも「この医師は信用ならない」「不親切だ」「自信がない」「私を見離している」など、さまざまな否定的な反応に陥っていくのです。
通院しているうちはまだ良いのですが、病院でだめならと、いろいろな根拠のない民間療法、いわくありげな食品、果ては怪しげな新興宗教などに手を出して、病気を悪化させるばかりか、挙句に大金を巻き上げられたりするのもこのタイプです。病院依存型、多分これが一番多いでしょう。
病気の存在は受け入れるものの、とにかく悪化しないか、失明しないか不安で心細く、頻繁に病院に来ていないと心の落ち着きどころがないようなタイプです。誰でもそういう状況下ではある程度は心配があるわけですが、心配が度を越しています。

慢性の病気だから年に2、3回経過をみれば十分だろうと医師の方は考えても、心配だからどうしても1ヶ月おきに診てほしいと要求する患者さんがいます。でも、この程度なら、まだまだ正常範囲なのです。
慢性進行性ではあるが、「そんなに急に失明するものではない、まだまだ大丈夫」と診察室で話しても1週間も経たないうちに、「また悪くなったみたい」などと繰り返し外来にやってくるような場合は、もはや眼の病気の他に「疾病恐怖」「失明恐怖」というもうひとつ別の病気が加わっていると見なされます。「眼に針を刺したようにチクリと痛んだ」「昨日見えていたカレンダーの数字が今日かすんで見えなかった」「視野の中で星のようなものがピカピカ光る」などなど、眼や視覚の些細な変化を重大視します。
いつもいつも、眼のことが気になっているからでしょう。「針を刺したように痛む」という現象は、意外なことに、珍しくはありません。
一種の知覚神経の刺激症状、つまり一過性の神経痛と言えるでしょう。眼球の表面の部分的炎症があるような場合に起こりやすいようですが、全く健常な眼球でも起こります。
じっは、人間は生きているあいだ、身体のどこかに、しょっちゅう原因不明の痛みやかゆみや異和感を覚えたりしているものです。一過性のものなので深く意識することなく、いつの間にか忘れてしまいます。
しかし、眼や眼の周辺にここにあげたような症状が起こるとびっくりし、心配になる場合が多いようです。まして、眼に病気を持っている人ではなおさらでしょう。
カレンダーの数字が見えないという症状については、拙著『目の異常、そのとき』で解説しましたが、周囲の光などの条件、眼の疲労度などいろいろな因子が関係するので、「信用できる」症状とは言えないのです。さて、ピカピカ光るのは「光視症」と言われるものです。
このことは飛蚊症とともに、本文の「老化とつきあう成熟さ、持っていますか」や「光視、幻視、多重視」でも解説しました。眼科では、とても多い訴えのひとつです。
とくに、強度近視、網脈絡膜やぶどう膜に病変を持っている人では出現しやすくなることは確かで、その場合には眼科的に詳しく調べる必要があります。けれど、大半が生理的な現象で、健常者でも加齢によって起こりやすくなります。
患者さんが外来に来られた折に詳しく調べ確かめて、病的な現象ではありませんと保証を与えても、すぐにその保証期限が切れてしまい、また病院を訪れるのが「病院依存型」です。「身体表現性障害」という範晴の中に「心気症」がありました。

病院依存型の「失明恐怖」もこの仲間です。いろいろな精神療法や抗不安薬などの薬物療法が試みられますが、症状が出ている部位を診る身体科(眼や眼の周辺なら眼科)の医師と患者さんの信頼関係が確立していて、かつ医師が病気や症状に対して一定の保証を与えることが必須であり、それなしにいくら薬物治療をしても治るものではありません。
同時に病院に来なくなることも多く、こうなると医師のほうから手を伸ばす手立てがありません。確かに病院に無理に通わせても、得るところは少ないかもしれません。
しかし、大きにか症状があれば自動的に病気や病気の進行と結びつけてしまう非合理的な思考パターン(自動思考)に患者さんが気付くことも大切です。悲嘆型慢性の、しかも治らない病気を持ったことで、悲嘆に暮れ、閉じこもってしまうタイプです。
視覚障害があることで、かつてのような活動的な日常を失い、好きだった本や新聞も読めなくなり、人の顔も以前のようにはよく見えないので誰かと会話するのも億劫になるのです。自分の幸福感を奪った病気をひたすらのろい、不幸感を増幅させ、生活意欲をなくしてゆきます。
悲嘆型は、家族などの協力者がいない限り、福祉資源に関する情報、種々のロービジョ(視覚補助具、拡大読書器、生活用具、拡大本)などに出会う機会も少なくなってしまいます。眼の病気になれば、誰もが失明しないかと心配になる「失明恐怖」が起こるのは当然です。
病気なのだから仕方がないと、諦めるタイプです。諦めるというと悲劇的に聞こえるかもしれませんが、じつはそうとも言えません。

病気や病態を十分理解して、病医院や福祉資源を上手に利用しながら、前向きに生活してゆける可能性があります。こうなれば、理想的な型と言えるでしょう。
先に紹介した、ベーチェット病になったUさんの例を思い出してください。しかし、病気に対する理解が不十分のまま、「何だ、治らないのか」と簡単に諦めて、捨て鉢になれば悲嘆型と対して変わらなくなってしまいます。
身体の病気にかかったときに死にはしないかと心配になる「死の恐怖」と同じ構造ですが、眼の病気で死に至ることはまずありません。むしろ、視覚障害という厳しい現実を抱えながらの、苦しい「生」が待っています。
それでも、希望を捨てずに病気と折り合っていらっしゃる患者さんがたくさんいます。ですから、眼の病気やそれに伴う機能障害や症状とどう折り合ってゆくかということが、とても重要になります。
このことは、その人の人生観に大きく関る、非常に大きな課題だと言えるでしょう。それを解決する前提として絶対に必要なのは、自分の病気とその将来について十分理解することです。
十分に理解し、納得することが必要です。それなしでは、現状を受け入れたり、折り合って生きてゆくことが難しいものです。
慢性疾患と書くと、何だか特殊な病気のように思うかも知れません。けれど、感冒などの急性感染症や急性炎症、あるいは外科的治療が功を奏して治癒に導けるような病気を除くと、実はほとんどの病気が慢性疾患であり、うまく管理しながら、つきあってゆかなければならないものです。
疾患ではありませんが、加齢による変化も同じでしょう。

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